通信-14年6月29日 
Monday, June 30, 2014, 23:59
(2014.6.29 pm5:40)

自分が、それ(そのプラン)を選んで、
生まれてきた(様々な現実世界での経験を経てきた)
という自覚がないと、
いつまでたっても 被害者側的意識の層から
抜け出すことは出来ません。
何を学ばなくてはならないから、
その経験を、してきたのか、
人間の何について、現実世界において
学ばされてきたのかを、客観的な視点で
とらえることが出来ない限り、
意識はその層に、とらえられ、堂々巡りをくり返すことになります
自らのつくり出した世界を学ぶ、ということと、
その経験をしておかなければ、
本来の正しき役割として、世のため、人のために、
尽くす、という生き方をすることが、出来なかったのだ、
という認識と結論を、自らのなかで
構築をすることが、求められています。
自分と同じような経験をした方たちが、
あなた方のもとに訪れて来たときに、
その方のお気持ちが、手に取るように理解することが
出来る、というのは、それを実際に経験をしたことのある
人間でしか、ない、ということなのです
自らが、生まれてきた理由、というものが、
あるとき、ストンと腑に落ちた、と感じられた時に、
ご自身が、ある目的を持って、わざわざその親を選んで
生まれてきた、という認識を持つことが
出来るのでしょう、
自らの存在の意義というものが分かったとき、
正しく、たましいと身体は結ばれ、つながれる、
ということなのです



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通信-14年5月22日 
Thursday, May 29, 2014, 17:35
(2014.5.22 am10:00)

どこかの何か(あるいは何ものか)が
何とかしてくださる、と
思い続けていたい方ほど、
簡単に操作され、操られます。
自らの考え、判断、行動といったものを、
正しく 誠実な ものの基本ベースとして
とらえることが 出来る方は、自ら以外のものに
操作されることがない。
前者のかたは、自らがそのたましいの
もとたるものの座を放棄して、はじめから
明け渡しているからである。


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通信-14年5月26日 
Thursday, May 29, 2014, 17:34
(2014.5.26 pm0:35)

自らが審判の器である、という自覚を
持つことが出来ない限り、
自らが被害者である、という主張を
その生が尽きるその時まで
し続けようとする立場のものとして
生き続けることを選択する人生を歩むものとして、
その生を終えることになることを、
ほとんどの人間は
自覚すらすることもなく
生きている

身体を持つものとして
どのような 生き様をもって、
その生の命を燃焼したものであるのかが、
死後問われるということに
ほとんどの人間は気が付くこともなく、
人生を快適に楽しく過ごすという
目的達成のために
日々の生活目標といったものを
掲げている
目標のすり替えというものが
その頭の中で、意識の中で、
起きているということに
当のご本人は気が付くことさえもなく、
本来の目指すべき正しき目的地とは
異なった、異質な目的地へと
足を進めていることに
自分だけが気が付かないという状況下のなか、
その生を、まっとうすることになる
審判の器、と、伝え続けていることの意味を
理解することが出来るものは、
責任を担うことの苦しみと
その人生をまっとうすることの出来るだけの
知力と努力を自らが用意をしてきたもの達である
それらのルールを踏むこともなく
持つものを妬み、それらを奪おうとする
おもいのエネルギーを燃やし続けるものは
自らの責任というものについて
考えることもなく、人から奪い、あるいは
もらい受けることだけを その人生の目標として
生き続けるものとなる、ということである
原初の神のエネルギーを妬み、呪い、
殺して、埋め隠したもの、というテーマが、
ひとりひとりの人間に対して 問われている
ということに、まだ、気が付きませんか、
その責任が問われ、自らの犯してきた罪の
負債についての支払いが、問われている、
ということに、まだ、気が付きませんか、

役割を終えて去ることになった、その時に、
“お疲れ様でした。よく頑張りましたね、”
と、祝福をされながら、その生を終えることの
出来たかたは、このちに何ものも残すことなく、
地上に負荷をかけることもなく、
去ることの できる方、なのでしょう、
“損だ、得だ、”という主張や、愚痴や文句を
その存在のなかに、おもいというエネルギーとして
ため込んだまま、この世を去ることになられた方は、
それ相応のエネルギーをこの地に残したまま、
肉体としての生を終えられるかた達なのでしょう。
他人のちりについて 指摘をしている暇があるのなら、
あなたの中の、ちりを、先に自らで
掃除をしなさい、ということである

指示や指図をされることもなく、
自らの意志と判断で、学び、選択をし、
先に進むことが出来るという、しくみについて、
きちんと考え 行動が伴なうかた達は、
学び、研磨をする、ということの意味を、
知るかた達、なのでしょう
「審判の器」というテーマについて、
正しき認識を持つことの出来るかた達は、
自らの責任と、成すべき自らの仕事について、
知り、そして体現のできるかた達なのでしょう
あらかじめ置かれていた、進化の法則というものに則り、
試練や困難を乗り越えながら、
先に、進みますか、あるいは辞退をされますか、
ということが、ご自身に問われているに過ぎません
それが、最終知識という書が伝えていることの
意図する内容であり、それらは既に開示が
成されているものである


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通信-14年5月15日 
Monday, May 19, 2014, 16:36
(2014.5.15 pm8:45)

(これから先、人間社会で仕事をし、働く方々へのご伝言です)

“あなたの人生の未来を、
潰すのも、生かす(活かす)のも、
すべては、あなた次第である。”

“自主学習”
“自助努力”
“自己責任”

その認識が、無い限り、
いつまでたっても、あなたがあなたの
人生を運営してゆく、ということは、出来ないということである。

宗教のくびきを外す、
もしくは、
スピリチュアル、という
自らの存在以外のものからの
何らかの恩恵を求め続ける
ということを、やめる、ということが、
“目が覚める”
ということなのでは
ないのでしょうか…

それとともに、
“知るということは、
担うということである”、と、
お伝えし続けていることに
気が付いて欲しいと思います。
何のエネルギーを学び、
そして、自らがそれを担う役割を
持っているのかを、
お考えいただきたく
思います。

“契約”という意味と、
それを履行することが
求められているということの意味について、
きちんと、お考えになられたことが
おありでしょうか、
何を求めて、エントリーをしたのかが、
問われている、ということなのです。
その本来の正しき意味を
理解されたなら、
あなたは、世のため人のために、人間社会で
仕事をし、身働くことが出来るかたなのでしょう

“自らの我欲を満たしたい”、
と、思っている方は、
人様のために はたらくことは
出来ません、
見返りを求める方も、同じことです、

何故なら、結果として求めているものが
自己中心的なものでしか
ないからです。
傲慢な思いを抱いておられる方も
同じことです、
結果として、自分のところに
どれだけ戻って来るのかということを
目的の主旨に置いておられる方には、
とうてい、勤まることの出来ることではありません、

“人様のため”、
利益が他者にあること、を、
第一の前提として、
あなたが、どれだけ周囲のために
働くことが出来るのか、ということが
問われている、ということなのです。
ご理解をして、いただけましたでしょうか。


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通信-14年5月13日 
Tuesday, May 13, 2014, 14:19
(2014.5.13 pm0:18)

人間がかつて神と呼び
崇(あが)め続けてきたもの
“お前のことを助けてやる”、というものを
人間は求め続けてきた
自分にとって都合のよい救世主というものを
人類は求め
そして自己の救済のために
それらを手に入れようと願い求めてきた
お前のことを助けてやる、というものは
神ではない
神ではないものに向かって すがり付き、
その魂を委ね こころの安定をはかり続けてきたものたち
それが これまでのこの地球における
人類の歩みというものの 正体であり、
このちに置かれた 仕組み というもの
神の名において、と 言いながら、
責任の所在を なすり付け続けてきたものたち
何ものに魂を委ね
何ものを求め続け
何ものを その自らの存在の上に
置き続けてきた ものたちなのか
それらのものたちが 救済を求め
すがり付いてきたものの正体が 分かるなら
何ものに自らの魂を売り委ねてきたのかが、
認識することが出来るはずである、
何ものを 自らの ご主人とし、
何ものを 自らの 上位のものとして、置き、
何ものに対して、その魂を
売り続けてきたのか、ということである
自らにとって都合のよい救世主を求め続ける
ということを
やめることが出来ない限り
閉ざされることになる、ということである
神の名において、と言いながら、
自らのおこないを正当化し続けてきたものたちの
末路というものが どのようなものであるのかを、
見届けるという 仕事が 残されている
役割を終えたものは 去るのが正しい、という
ルールにより、自らのおこないを 正当化し続けながら
その生を終えたものたちは、
それこそ、自らが追い求め続けてきた
永遠性というもののルールにより、
神罰というものが 待ち構えている
つまり、自らのおこないの結果を
自らが受け取る、ということである、
神の名において、と、いい続けながら、
崇め続けてきたものの正体が、何ものなのか、
支配し、奪い尽くすことを 正当化し続けてきたもの
の正体が、何ものであるのか、
全地球を自らの所有物であるという
欺瞞や傲慢を、平然と主張をし続けてきたもの
の正体が、何ものであるのか、
その、何ものかに対して祈り、願い、求め続けてきた
その自らの責任を取るために、
その罪、というものが問われていることに、
まだ、気が付かないのですか
自らの外部に救世主を求め続けることの
あさはかさと弱さと罪について
何故、自らで考えようとも しないのですか
自ら以外の何ものかに 依存をし
助けてもらおうとする、その根本的な部分に
目を向けない限り
この、5たび滅んで6番目のもの、と伝えられている
物語は終りようが、ないのです
ひとりの人間のうちで起き、それが外部に
照射をされた時、
同じことが 1つの個体で起こり得ることが
出来たなら、外的世界へと、それらの情報は
伝達が なされる、ということである
終わり間際の星は、
そのエネルギーを爆発させる前、
猛烈な エネルギーの大活性化状態になり、
最後の勢力を強めることに気が付いたなら、
今が、どのような時期であるのかが、
分かるはずである
いまわ(今際)の時に 燃え盛る炎というものが
何であるのかが分かれば、
何の時代の変わり目であるのかの認識が
出来るはずであり、
その時、ひとつの時代が終わり、役割を変える、
と、伝え続けていることの意味が分かるはずである
今が、その時であることに気が付けば
進行中のことがプロセスに過ぎないことが
分かるはずである


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