通信-10年1月8日 
Friday, January 8, 2010, 17:00
(2010.1.8 pm0:35受)

人間が本来持ち得ている
治癒能力を活性化させる
仕組み、はたらき
施術をほどこして治癒をするという
おこない、行為ではなく
それぞれ個々のにんげんが
本来ならば正しく機能させることが
可能なはずの自動再生機能のようなものが
スムーズに はたらき出すために
その人間のはたらきを阻害している
要因を外し除去をする はたらき
ほとんどの 人間が 勘違いをしているのは
自らが相手に対して
“良い影響を与えてあげる” あるいは
“与えてあげている”という自負のようなものを
持っているものだという錯覚
それらは そのおもいを 相手に
送り込むことによって 相手の身体や
意識の状況を改善をして「あげている」
という思い込みの範疇(ハンチュウ)でしかないという
ことである
これまでに多くのにんげんが
対象物に対して 自らが何らかの
善行をして「あげている」というルールにより
その、自らと対象物との間に
何らかの利害関係というものを
自動的に無意識につくり出し
それらの関係を保つことに
さらに多くのエネルギーを使い続けてきた
ということを 自身で認識をしている人間は
ほとんど 存在をしていない
無意識であれ 意識的であれ
にんげんという種の 生きものは
多くの人間の より上位に立ちたいという
その欲望を満たすために
ありとあらゆる方法を使い続けてきた
それらの多くは
その存在のなかでの無意識領域
つまり 目には見えない
その、責任を問われることが無いと
思い込んでいる 意識下においての
ツールを使い
その他の人間の上位に立つことを
自らのみが許されたという
自らにとっての都合のよい認識により
他者を 自らの支配下に置く権威を
与えられているという判断により
支配と権力のルールの歴史を
つくり続け そのルールの継続を
望み続けてきた
自らの 生存期間内での栄華とともに
生き続け 支配者として君臨するという
権利を自らが持ち得たとの思い込みにより
それらの永遠性を保つことに
エネルギーを注ぎ続けることになる
悲しきかな それらのもの達は
自らのたましいの ゆく末と ゆく先を
知ることはない
そもそも 「責任」ということばが意味する
本来の正しき意味を知ることはなく
自らの権威を保つこと それ自体が
自らの責任であるという 当人にとっては
正当な理由付けが その存在のなかに
存在をし続けている
栄華や権威、地位というものが
大きな鎧のようなものとして
その存在の たましいを覆い
本来 まっとうするべき 正しき にんげん
としての 生存と 存在のあり方を
全く 見えないものとして 生き続けているということを
本人だけが自覚をすることの出来ない領域で
覆いをかけられた 自分だけの
ミニシアターのなかで、自分にとっての見たい
映画のみを み続ける という世界観のなかで
生き続けることに 努力をする
つまり ちいさな囲いで覆われた
自分だけの ミニシアター
それが 見たいものだけを 見続けようとする
小宇宙と言われるものの 正体である
その 囲いや 覆いを
外す ということは
様々な情報が ダイレクトに意識にあがり
処理能力が 伴なっていない場合
意識を病むか 身体に変調をきたすか
いずれにしても 外から入って来るものの
影響を受けることになる
通常のにんげんが あり得ないと
思い続けている
種(シュ)としての にんげんの潜在能力
というものが開花をする ということ
その 正しき 情報処理能力を
持ち得ることが 可能であるならば
DNAレベルでの 進化と言われるものが
加速をすることになる
ゆるやかな 進化論の 時間的経緯のなかの
ある分岐点において
ある存在の 意 を知り得るものが
その到達点の 行く先を 知り
自らの存在そのものの 基盤であるともいえる
たましいと呼ばれるものの存在意義を
認識し その責務を担うことを 望むもの
あるいは 正しき 契約下のもとにより
開花をさせることの出来る 能力
と 言われているもの
それらの存在を 懐疑のまなざしで
見、そのちいさな 自らが正しいと思う小宇宙内での
情報網や常識の域からしか
物事を判別、判断が出来ないものにとっては
信じ難い領域の お話でしか ない
つまり 責務を担い 進化への道すじを
選択するのか
あるいは それらの責任というものを
はじめから無いものとして 自らだけの快適な
小宇宙内での 幕切れを 望むのか
それが 個々の存在としての たましいに
問われているだけ の お話でしか ない
契約の概念を 持ち得ていないものにとっては
耐え難く 受け入れられることの出来るものではない
各々(おのおの)の にんげんに
その 自由な 選択は 与えられ
その判断は 委ねられている
つまり 上昇するのも自由
落下するのも 自由であると 伝えている一節が
そのこたえとして、 与えられている ということである
はじめから 世のはじめから
こたえは そこに用意がなされ
ある時 ある意志の存在のもとに
この世と呼ばれている 次元と時空の
存在のもとに 置かれることになる
という その分岐点に 立つものとして
その生を まっとうするものとして 存在をしたいのか
あるいは 否か が
問われている ということである
それが 個々の物語としての お話であり
用意である

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通信-09年12月20日 
Thursday, December 24, 2009, 12:00
(2009.12.20 pm0:15受)

奴隷の身となりぬるものは
自らが 何ものに奉仕を
しているものなのかを
知り得ることは ない
何ものに 呪縛され
何ものの 手先となって
その奉仕活動にエネルギーを
費やすもの として
自らが存在しているのかを
知ることはない
裁きが くだるのは
その他の 邪悪な にんげんに
だと
思いつづけていたいのは
その存在のなかの
「自分は悪くはない」という
主張を いつまでも し続けて
いたいものの言い訳でしか
ない
その 堅固で屈強な
自意識の殻を
誰かが割ってくれることを
期待し続けている限り
あなたの正しき意識は
目を覚ますことは ないのでしょう
あなたの人生の 主人公は
あなた自身で
自らの意志で 決めて
思考し 行動をする という
当たり前の 姿勢(資性?)が
伴なわない限り
何ものかの 手先として
つかわれ続けるものとなります
あなたの存在 そのもの自身に
勇気を持って向き合いましたか
あるいは 向き合うことを避けてはいませんか
正しき 精神界の あるいは
精神意識の構造に
自ら自身が 自らの内部世界に対して
きちんと 向き合いましたか
と、 お尋ねを しているのです
それらの正しき手順をふまえ
自らの存在そのものに 向き合い続け
思考をし続けたものであるのなら
何に問題があって
どのような場面で 自らがつまずき
どういった結果のもとに
今の自分が あるのかを
「考えれば」、考えれば
きちんと認識をし 判別をし 判断をすることが
できるはずです
それらの正しき過程を
きちんと ふまえましたか
あるいは ふまえてはいませんか
自らの人生が うまくいかないことを
自分以外の 原因にしたいと
思い続けている限り
あなたの目が覚めることは
ないのでしょう
逆(さか)うらみをし 呪い 妬むのは
ご自由なのですが
あなたが いくら
自分は そのようなことは していない
と 主張を なさっていても
あなたの たましいには
それらの 正しき 事実のみが
刻まれ続けて いるのです
その結果が 問われるだけの
話でしか ありません
意識していない やっていない
という主張の その奥底に
あの人間さえ いなければ
という 思いのエネルギーが発生していることを
見ない あるいは 見えないふりを
なさっている だけなのでは
ないのですか
それらのエネルギーが
イエスを殺したエネルギーそのもの
なのですよ
まだ わかりませんか
あなたのうちに あり
あなたを 苦しめ
あなたを 支配している ちからが
イエスを 殺したのだ
それは
あなた自身 なのだ
それらの事実は 既に
あなたがたには お伝えを しました
ご自身が それらの責務を
担う ということの意味を
よく お考えに なってみて下さい
自身が 被害者意識 を 持ち続けている限り
正しく はたらくことは
難しいのかも しれません
受け入れ 担い 乗り越えてゆくことの
意味を よく お考えいただかないと
あなたの うちにある
内部の暗いひかりのものが
まったく別の物語をつくり続けることになるのです
自らの基盤となるものが
その場所に とらえられ続けている限り
現実の世界での変化は
もたらされることは ないのです
そこから 出るのは
自らの意志でしか ありません
つまり 自ら自身の 救世主は
あなた ご自身でしか ないのです
どこかの 何ものかが
あなたを助けてくれるのだという
幻想を いつまでも 持ち続けている限り
“目が覚める” という ことは
ないのです
ご理解をして いただけましたでしょうか


(2009.12.20 pm2:37受)

自らが願い 手に入れたいと
思い続けている 能力
というものが
何ものに由来をしているのかによって
全く 似て非なるものの領域に
踏み込むことになるのです
ものごとが 自分の思ったとおりに
なることを 願い求めるもの
それらは悪魔の手先として
生きるものになることを
ご当人は 自覚さえ していません
自らにとっての困難な状況を
避けたいために
都合よく状況が変化することを
願い求めているものは
向き合わされている現実に対面し
現実のものとしてどう対処をすることが
正しい選択なのかを 実際に自分の頭で
考え シミュレーションし 「行動をする」
ということを しようとは しません
自らの 思いのちからで 状況が変わることを
求め続けている限り
自らが行使している そのちからが
一体 何に由来をしているものなのかを
知ることは ないのです
“知ったとしても”
たとえ それらのエネルギーを
知ったとしても
行使をしては ならない
なぜならば 闇のエネルギーが
増幅をするからである、と
お伝えを したはずです
自らが意識していない という
自らにとっての都合のよい言い訳は
残念ながら、通用することはありません
何故ならば
それらを知らずに、行使をするものと
知っているはずのものが
行使をするということは
全く別の次元の話でしか
ないからです
向き合い 担い 背負う 十字架の
意味を 伝え続けているものの事実に
目をそらし続けている限り
自らの認識思考能力というものが
つちかわれることなどは ないのです
いとも 簡単に
たやすく 乗っ取られるのは
何故なのですか
何ものに使われているのかを
自らの小宇宙から外に出て
よく よく 見てみることです
一体 何を目的とした行為を
なさろうと しているのですか
正義と 自らのための 傲慢とは
いとも たやすく その頭の中での
すり替えが なされていることに
ご自身が気が付かない限り
あなたが 全く 認識すら
出来得ていない領域で
別のものの手先になっていることに
自分だけが気が付かない世界で
生きるものとなるのです
アクなるものを潰そうとする
その 一見 正義にも見える おこないが
何ものの手先になっているのかを
よく お考えになってみて下さい
外部からの攻撃を受け続けていると
被害者意識を持ち続けているもの
それは
あなた自身の小宇宙のなかの
お話でしか ありません
つまり あなたに由来するものを
処理する義務は
あなたに あります
外部に放出をし
助けて欲しい 担って欲しいと
何ものかに すがり続けている限り
担う意志を持ち
処理をするものとして 存在をすることは
難しいのです
おわかりでしょうか
それは あなたの ご家族 ご友人
知人の方々 すべての方々に
いえることなのです
自らが選んで その日 その時
その親のもとに 生まれて来たことの
意味を よく よくお考えになって
みて下さい
自らの現在の環境に
くすぶり続けた 黒い おもいを
持ち続ける限り
あなたが 今いる その場から
次のステージへと 進むことは
難しいことなのでしょう
おなじことは 既に
もう 何度も 何度も
お伝えを し続けてきた はずです
自らの存在の内側を
見ようともしないもの
それが
見えても 見えないもの
なのです


(2009.12.20 pm9:10受)

あなたに課せられた試練
というものは
あなたの精神を成長させるための
プログラムでしか ありません
そこで 運命に屈しない勇気
というものが 必ず試されることに
なるのです
課せられた試練というものは
あなたを潰すためのものではないことに
気付いて下さい
ギリギリのところで 耐えられるように
制御が 成されて いたはずです
次に、求められるのは
知力です 知り、そして担うこと
その 自覚を 持つことです
これまでに培われてきた このちの
地(知?)識を ベースに持ち得ていないと
次にどうするべきなのか という
対策をつくり出すことが できません
これまで どうであったのか
ならば この先 どうするべきなのかを
考えるために、これまで 人間が
つくり上げてきたものの 知識を
知っておく 必要があります
知り、そして、担いなさい
それが きほんです
なぜ それらが成功し
そして なぜ それらが失敗したのかを
正しく 洞察をしておく必要が
あります
知識をベースに 考えるなら
それらの矛盾点というものが
明確に浮かび上がってくるはずです
それらを よく観察を「し続ける」ことです
次への対策法を 常に
考え続ける ということです
渦中のなかに いるものは
自らの失敗理由が わかりません
なぜならば 自らの選択こそが
正しいものだと信じて疑わないからです
よく 冷静に観察を することです
たとえ相手が何をどのように主張を
していても 絶えず 冷静な目線で
客観的に 見続ける ことです
その先に 必ず こたえが あるはずです

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通信-09年12月3日  
Thursday, December 3, 2009, 16:05
(2009.12.3 pm0:35受)

それを目にする人にとって、
一種、原型的な怒りを
呼び覚ますもの
自らの中にある その部分が
それらのものに同調をし
反応をする
その怒りのシステムというものが
同調をして反応をし合うことにより
個々の、各々の小宇宙のなかでの
反応点が 活性化をする
怒りに 身を やつすものは
その自らの怒りにより 滅ぶ(ばされる?)であろう
その原ショの 暗い光の真中に
自ら自身が とらわれ続けている
ものである限り
あたらしき 知の地平に立ち
未来を見すえて歩みをむける
ということなどは
不可能に等しい
こだわりを捨てるという行為を
手離さない限り
次の段階へのステップを 踏み
進化への道筋への歩みを
進めるということは
到底 難しい
さけび うごめき わななくのは
自由である
自由であるのだが
その場からの脱出をするのか
しないのかは
自らの選択と 意志によるものであることに
気が付かないと
残存時間内での不毛な闘いに
あけくれるものになる ということに
気が付かなければ ならない
その道を ふまえた ものでしか
到達できない 場が あるということを
お知らせしているものが 何なのか
それらの果たす役割が何なのかを
あなたがたは 知るものである

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通信-09年11月26日-2 
Friday, November 27, 2009, 17:15
(2009.11.26 pm5:09受)

みちみちて しんくん
とおからず や
さきゆき の
イザナギ の みちびきの
みちの あかるきこと
すこしも たがはず
とおからず や
さきゆきの よ の
おはし なさるる
クニ うみの
みちの あかるきこと
すこしも たがはず
たち ゆきて
やいば なり
けん と そのみの あらはし なる
あらはし なりや
きき よみとけず その えすがたにより
とらはれ しょうちょうと する
そのものたちは
しばられ くくられた そのとじた
わのなかから 出 出づることは
なき ものたち なりき
みかん の よを
たり えた ものに する
よ ときの ために
いま このばに いでて
みち ひく もの へと
みちびき たまはん
けう なる じきに おひて
みのさだめなるを
しりえるもの は
かすがい なり
かすがい なり
さだめられた そのときを えらび
よういされたる みの ありようを
えらび
かくなる ものが
とうたつてんで あるのかを
しる もの
その たまに こくいんされし
こくいん されし
うぶごえを あげしたまひた
その ちひさき みの うへの もの
まっすぐな みち の
すがしき たまのねの おと を
きき
とざされた わ から かいほうされる
そのゆくすへを しりし もの なり
なり
みの なり と
けん くん なる その かたを
さし しめす もの とは
ウケたまはりた そのおやくめを
になう ようい
そこで そのちにおいて
そのケイヤクのもとに うまれしもの
さだかなる アシおとと ともに
まひりたまはん
まひりたまはん
もののべの ちに おいて
けん つかまつり たまはん もの
ふるき ちの おは(わ)りを
そのもののすべが
たちあらはしたまはんと する
モノ
けん くん なりき
けん くん なりき
きこへる アシおとと ともに
まひらせし
まひらせし
かんだから の よ
ふるき ちの おはらせし
おはらせし
まひらせし
まひらせし
ち が うごくれば
てん うごき
てん うごくれば
ち が うごく
てん ち てん ち
てん うごくれば
ちが うごく
まひらせし
まひらせし

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通信-09年11月26日-1 
Friday, November 27, 2009, 17:14
(2009.11.26 pm4:07受)

おとうと と そのきょうだいによる
ちのみの かんけい とは
みずのち しん あたえたもふた
その ち しん の
かんけい
おもわく とは うらはらに
でる よに とひかけを なさる
そのみのうえの ものたち
まつ こと まつの よにおいて
まつること き(キ?) の かわ の
ながるる ようい
ようい その ミヅ(ズ?)の
わき でる いでる ち
から
あふれ ながるる
キ の ちのかわ
わきいでた キ の ちのみづ(ず)
の いみ しりたえる もの の
みの ため
みの ようい
うごき たまは(わ)る ようい
うけつぐ もの の ようい
キ から ち への みち すじ
すじみち なる を
ウケ たまひ
みづ(ず)の わき いでる ちの
ほっせし ものの いみ とい
あしあとをつけ
たまわることの いみ を
ようい できた ものには
しりえる ことの 可(か) なる
こと 可(か)なること
みずの をと きき たまい
のり とを あげる ことの
い(意)をくみ その
いみなるを 知る
ははなる もの と
その たいち の うめかくし
なる ものの ときを へた
でんたつ じこう は
のり こんだ ふねの
その ゆくさきと ゆくえを
しるもの なり き
こま と こま
たま と たま の あい(愛?相?)
なる かんけいを とき
からまりた ひもの ときほぐす もの
その みのなり を
うつし たまへ
そうかん かんけいは つねにあり
そのちからの じゅばくを
へて ときはなたれたものたちの
たま の いし なるを
みちびき たまはん
ウケ たまはん
あしあとを つけ たまはれたことの
イ を くむ ものは
その イシ トウタツ する ところにまで
とどき たまはん
ウケ つがれ なん
ヒビキ こだま ヒビキ の
とおからず や
みちびきを
みちびき なるは
みち を ひき
さし しめる(す) ことの イを くみ
あと へと うしろ へと
つなぐ どうかん の
やくわりの イ を くむ
もの なりき なりき
みち びき なるは
さいごの さいご まで
みちのとだふることなく
みちびきたもふ もの の こと
ウケイ(ヒ) とは ウカヒ とは
ヒ を ウケ ツグ ものの
みの あらわしの ありよう
なりき なりき
ヒ ト を ともに みちびき
たもふ もの は
それらの ウケ ウカ ヒ の
しょうちょう なり き なりき 

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